2009年06月17日

近代・現代における都市国家

第一次世界大戦後にはダンツィヒが国際連盟保護下の都市国家である自由市(自由都市ダンツィヒ)となり、フィウメやバトゥミも短期間だが自由市とされた。第二次世界大戦後にはトリエステが国際連合の管理下で都市国家(トリエステ自由地域)となることが決まったが実現しなかった。

現代ではシンガポール、モナコ、バチカン等が挙げられる。

主権国家ではないが、ドイツ連邦共和国を構成する州であるハンブルクやブレーメン、中華人民共和国の特別行政区である香港やマカオ、ギリシャのアトス山において大幅な自治が認められているアトス自治修道士共和国等も、都市国家に近い存在である。ハンブルク、ブレーメンの場合は「自由ハンザ都市」という呼称もあり、正式名称も「自由ハンザ都市ハンブルク」となっている。
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また、厳密には都市国家とは言い難いが、面積が狭小なジブチ、ナウル、サンマリノも都市国家に準ずる国家であると見なされる場合もある。ジブチやサンマリノでは一国がほぼ首都の経済圏となっているし、ナウルは小さなひとつの島で構成されているだけであるからである。ただし、ジブチやサンマリノでは小さいながらも首都以外の行政地区も存在する。逆に、ナウルではそもそも「都市」と呼べるほどの聚落が存在しない。

2009年05月31日

哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する

元符三年(1100年)に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。

蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して増税を行うといった状態であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が宣和二年(1120年)の方臘の乱である。
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一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、重和二年(1118年)金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。しかし同じ宣和二年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。

翌宣和五年(1121年)に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。

五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に金太宗は怒り、宣和七年(1125年)から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。

金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。

包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。

その後、金の人質となっていた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。

2009年04月28日

帝国の解体とアジア・アフリカの動向

第一次世界大戦中に、社会主義革命が起こったことでロシア帝国が崩壊した。また、ドイツ帝国・オーストリア帝国・オスマン帝国などが敗戦国となった。そのため、パリ講和会議では民族自決の理念のもとに敗戦国における諸民族の独立が承認され、ナショナリズムを肯定することで帝国を解体させた。しかし、戦勝国のイギリス・フランスもまた広大な植民地帝国であったため、アジア・アフリカでの民族自決は否定された。

第一次世界大戦中、アジア・アフリカでも総力戦体制のもと、多くの人的・物的資源が動員されていた。こうしたことは、アジア・アフリカの民衆を徐々にナショナリズムに目覚めさせていくことになった。その矢先にパリ講和会議で民族自決が否定されたことは、アジア・アフリカの深い失望を招くものであった。このように植民地・半植民地とされた従属地域では、まずは民族の解放が最優先の課題とされたが、そうした中で世界社会主義革命をめざすソ連が、その戦略の一端としてアジア・アフリカの民族運動に理解を示す行動を取ったため、こうした地域ではナショナリズムと社会主義が結合する事態が生じた。そのため、中国やベトナムの共産党などのように、コミンテルンの主導で結成された社会主義政党がやがて民族運動の中心勢力となり、第二次世界大戦後には国家建設を担うということも起こった。

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エルネスト・ルナンは、講演『国民とは何か?(Qu'est-ce qu'une nation?)』で、フィヒテに代表されるような民族・言語の共通性などに立脚する「ネイション」概念を否定した。彼によれば、「ネイション」とは民族・言語・宗教・地勢などによって定められるのではなく精神的な原理に立脚するものであり、彼の代表的な言葉を借りれば「日々の国民投票」によって形成されるものとされる。

2009年04月12日

恐竜

恐竜(きょうりゅう)は、三畳紀に爬虫類から進化し中生代に大繁栄した生物である。恐竜の大部分は白亜紀末期に絶滅したが、恐竜から分岐進化した鳥類は現在でも繁栄している。地表に生息しているもののみを指し、翼竜や首長竜は恐竜に含まれない。

原爬虫類から進化し大型化した種類で、分類学的には竜盤類と鳥盤類を恐竜とする。日常用語では翼竜、魚竜、首長竜なども含むことが多いが、分類上ではこれらは恐竜には含まれない。この3グループの系統上の位置は爬虫類を参照。

恐竜の大きさは種類によって大きく違っていた。最も小さいものではニワトリほどの大きさだった。最大のものは竜脚類で、その中でもアルゼンチノサウルス(Argentinosaurus)が分かっている範囲では最も大きく、クジラ類を除けば地球の歴史上最も大きな動物である。さらに、アンフィコエリアスはクジラより大きかったとされる。ただし、こちらは実在が疑問視されている。

いずれにせよ、恐竜が地上最大の動物だったことは間違いない。また、体重についてはブラキオサウルスなどが40トン以上だったと考えられている。

また、恐竜は多様な進化をしたことでも知られる。大きな特徴として二足歩行が挙げられる。四足歩行に二次的に戻ったものもいる。

恐竜の祖先は肉食性だったが、進化の過程で草食化したものも登場した。

なお、現在でも新種の恐竜の化石が発見される、同種だと思われていた恐竜が別種だった、逆に別種だと思われていたが同種だった、骨格から体の特徴が改められるなどの新発見が相次いでおり、毎年のように最も有力な学説は変化している。すなわち恐竜研究は現在も速い速度で進展しつづけているのであり、現在最も有力な知見が将来も有力であり続ける保証は存在しない。

恒温動物説 [編集]
初めて恐竜が見つかった時には、爬虫類であることも踏まえて変温動物と考えられていた。近年の研究から、骨格の構造の解析による新しい証拠や科学的な検証から、恐竜を含む主竜類、特に一部の獣脚類が一定の恒温性を獲得していたことはほぼ間違いないとされる[要出典]。だが、恐竜が変温動物か恒温動物かは、化石からある程度類推することこそ可能ではあるが、化石のみから決定できるものではないとされる[要出所明記]。こうした事情から、恐竜類全てをひっくるめて「恒温か変温か」という議論の有効性は限定されており、その意義は「恐竜は鈍重な生物である」という旧来の固定概念を覆したことに限られるとの意見もある[要出所明記]。

羽毛をもった恐竜 [編集]
最初期の鳥類の始祖鳥は、19世紀にドイツのジュラ紀の地層で発見された。始祖鳥の発見以降は鳥類の化石はほとんど見つからず、鳥類の起源については諸説が乱立していた。

しかし、1990年代以降、中国の白亜紀の地層で羽毛をもった恐竜の化石が相次いで発見され、鳥類と恐竜の系統関係が明らかになってきた。 羽毛をもった恐竜には、シノサウロプテリクス・プロターケオプテリクス・カウディプテリクス・ミクロラプトル・ディロングなどがある。

これらの発見から、従来は鳥類の固有の特徴と見られてきた羽毛が恐竜にも存在していたことが分かり、この羽毛をもった恐竜のグループから空を飛ぶ鳥類が進化したことが明らかになってきた。 このように現在では、鳥類の先祖は恐竜の獣脚類の一種であることがほぼ定説となった。

行動 [編集]
恐竜の生態は謎に満ちている。というのも、恐竜は絶滅してしまっているため、その行動を直接見ることは出来ないのである。数少ない物証としては、ヴェロキラプトルとプロトケラトプスが戦っている状態で見つかった化石や、鳥類のように丸まって眠っている姿勢で発見されたメイ・ロンの化石、同種の歯型が多数残り共食いをしていたことが推定されるマジュンガトルスの化石がある。

恐竜の行動の多くは足跡や巣の状態から類推することができ、骨格、筋肉、足跡の計測などから歩行速度を求めることもできる。たとえばティラノサウルスでは、脚の骨格と筋肉の検討から普段は時速18km以下で歩き、最高速度は時速40kmが限界であるという[要出典]。

また、子供を育てるなど現在見られる哺乳類動物と類似する社会性をもった恐竜もいたと考えられている。社会性をもつと、捕食動物にもよるが、捕食者が近づいて来た場合の警告がしやすい。また、彼等は家族単位で長距離の移動をしていたともいわれる[要出典]。しかし、これらはまだ研究者の間で議論中の論点であり、異論も少なくない。

絶滅 [編集]
恐竜をはじめとする大型爬虫類は白亜紀末期に絶滅し、その滅亡原因については諸説ある。もっとも、鳥類は絶滅を逃れ進化した恐竜との見方を取れば、恐竜は絶滅してはいないことになる。

短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説・伝染病説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)
そのうち、巨大隕石の衝突を最初にかかげたのは、物理学者ルイス・アルバレスとその息子で地質学者のウォルター・アルバレスであった。二人は1980年代に、巨大隕石の衝突による地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると示説した。この説の根拠は、中生代白亜紀層と新生代第三紀層の間の黒色粘土層(通称K-T境界層)中のイリジウムが数十倍の濃度であること(イリジウムは地殻にはほとんど存在しないため、地球外由来と考えられる)、またユカタン半島の地下に巨大なクレータが発見されたこと、などがある。直径11kmの隕石が秒速40kmで衝突したと考えられている。 現在、この説が最有力となっている。 ただこの説では、なぜ同時期に存在した両生類や爬虫類が絶滅を免れたかという疑問が残る。また恐竜は非常に多様な進化を遂げており、これが全て絶滅してしまった結果を説明することが難しいという難点がある。

軟組織の発見 [編集]
2000?2003年、米モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が発見された。

復元 [編集]
恐竜の習性は化石では直接確認できないことが多いが、足あとの化石や生息地が習性を予想する手がかりになる。マイアサウラのように子育てを継続的に行っていた証拠が確認された例などもあるが、恐竜の行動にはなお不明な点が多く、現在恐竜展などで展示されている恐竜の姿や行動は、鳥類の習性からの予想や似た生態的地位にある現生大型動物からの類推による部分も大きい。

恐竜は、ワニのような皮膚をもっていたとかつては考えられており、実際に鱗が保存された化石も発見されている。その後鳥類との類縁関係が注目されるようになり、羽毛をもった化石も発見されたところから、ある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもっていた可能性も考えられている。ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは不明である。皮膚自体が残った、いわゆるミイラ状態の化石は発掘されているが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからである。

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2009年03月28日

通常感染してから長期間経過した後

通常感染してから長期間経過した後に日和見感染症などを発症する。23の日和見感染症のいずれかを発症した場合にAIDS発症と判断される。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

カンジダ症
クリプトコッカス症
ニューモシスチス肺炎(PC肺炎=旧カリニ肺炎)
コクシジオイデス症
ヒストプラズマ症
クリプトスポリジウム症
トキソプラズマ脳症
イソスポラ症
サルモネラ菌血症
サイトメガロウイルス感染症
化膿性細菌感染症
単純ヘルペスウイルス感染症
活動性結核 (active tuberculosis)
非定型抗酸菌症
反復性肺炎
リンパ性間質性肺炎・肺リンパ過形成
カポジ肉腫
原発性脳リンパ腫
非ホジキンリンパ腫
浸潤性子宮頸癌
進行性多巣性白質脳症
HIV脳症
HIV消耗性症候群

検査 [編集]
感染の機会があってから3ヶ月以上経過した後であれば、採血による血液検査でHIV特異抗体を検出する事ができ、感染の有無を確認する事ができる(但し最近は判定キットの精度の向上により2ヶ月程度でも問題ないとされる)。しかし、HIVの感染初期においては抗体が十分に作られず、血液検査では検出できない期間がある。この期間をウインドウ期間(ウインドウピリオド・空白期間)と呼んでおり、およそ2ヶ月ほどある。その為、この間に血液検査を行っても陰性と判断されてしまう。また抗体検査では非特異的な反応によって、あたかも陽性であるかのような偽陽性の結果が出る場合がある。その為、確定診断として、血中のウイルスRNAをRT-PCR法によって検出するウイルスDNA検査も広く行われている。

検査は全国の保健所で匿名・無料で受ける事が出来る。また、自分の居住地以外の保健所でも検査を受ける事ができる。そして有料であるが、医療機関でも検査を受ける事が出来る。都市部の保健所では、夜間や休日にも検査を行っている所があり、仕事や学業に影響を与えず検査できる体制を整えつつある。結果はおよそ一週間ほどで判明するが、近年は30分以内で判明する即日検査も普及し始めている。

献血においては安全性の面から検査を行っているが、陽性であってもその結果は献血者本人に知らせる事はない[3]。それは感染リスクのある人間が、検査目的で献血することを防ぐためである。一方で、通知しないことにより感染者が再び献血をしてしまう懸念もある。ウイルスが検出できないウインドウ期間があり、この期間に献血をしてしまうと、汚染血液が検査をすり抜けて輸血患者にウイルスを感染させてしまう。その為、決して検査目的で献血を行ってはならない[4]。HIVのウインドウ期間はおよそ2ヶ月ほどであり、最も感度の高い核酸増幅試験(NAT)では、感染後およそ1ヶ月が経過した後にウイルス血症に陥ってから平均11日から22日後に検出可能であり、平均22日以降では抗体によって検出が可能となる。NATで検出が出来ない期間を「NATウインドウ期間」、抗体による検出が出来ない期間を「血清学的ウインドウ期間」という。感染が疑われる機会があった場合は、それから1ヶ月半以上経過の後に血液検査を行ってから、献血を行う事が望まれる。

なお、「陽性であっても、その結果は献血者本人に知らせることは無い、と公表しているが、実際のところ告知を行ってるかどうかは不明(場合によっては告知する場合がある)である」などという言説がよくあるが、これは全くの誤りであり、悪質なデマである。

現在、NATは試薬が大変高価で検査費用が高い事、完全自動化されておらず一度に大量の検査ができない為、20検体を1つにプールしてNATを実施し(ミニプールNATと呼ばれている)、あるプール検体が陽性となった場合はプールされている20検体をし[5](個別NATと呼ばれている)、陽性の検体を特定して、その検体に対応する血液のみ廃棄するという方法をとっている。

感染が疑われる場合は、第一に全国の保健所及び医療機関に相談する事が先決である。

治療 [編集]
HIVがレトロウイルスである事から、HIV自身が増殖に必要な酵素を阻害する、逆転写酵素阻害剤(NRTI)、プロテアーゼ阻害剤、非核酸系逆転写酵素阻害剤 (NNRTI) が開発され治療薬として使われている。現在のHIV治療はこれらを複数組み合わせて使用する。これは多剤併用療法、HAART(HAART療法、Highly Active Anti-Retroviral Therapy)、カクテル療法などと呼ばれている。また、ウイルスが細胞に取り付くところを抑制する薬剤(フュージョンインヒビター)の開発もされ、米国及び、EUで認可されている。HIV治療薬は適正な使用によりHIVの増殖を抑制し、患者の免疫機能を回復させ病勢の進行を遅らせるのに一定の効果があり、現在ではHIV感染症は長期にわたりコントロールできる疾患になりつつある。しかしHIV自体を体内から排除する根本治療ではない。

抗ウイルス薬を参照。

また、現在では抗ウイルス薬とは全く違うアプローチでHIVを阻止しようという試みもあり、臨床実験が行なわれている。

2009年03月12日

ヴェルギナ

ヴェルギナ(ギリシア語 Βεργίνα)はギリシャ共和国の中央マケドニア地方に属する町。テッサロニキから南西に80km、ピエリア山の山麓に位置する。人口は2,000人。古代マケドニア王国の首都アイガイとされる遺跡が存在する。

この遺跡は1996年に「ヴェルギナの古代遺跡」として世界遺産に登録された。

古代マケドニア王国の都アイガイとして栄えた。都は前5世紀末にペラへと遷されるが、引き続き王国の中で重要な地位を占めた。この街でピリッポス2世(フィリッポス2世)はパウサニアスによって殺害されたとされる。

1977年町に存在する遺跡が、ギリシャの考古学者マノリス・アンドロニコスによりマケドニア王ピリッポス2世の墓であると主張されたことで有名となった。事の真偽はいまだ明らかとなっていないが、ヴェルギナの遺跡が考古学上重要な位置を占めていることは確かである。

フィリッポスの骨を納めた納骨箱(larnax)であるとアンドドニコスが断定した黄金の箱には光線を有した星の模様が描かれていた。この模様はヴェルギナの星と呼ばれ、古代マケドニアの象徴とされるようになった。1991年にユーゴスラビアからマケドニアが独立した際、国旗にこのヴェルギナの星を使用した為、ギリシャが反発し国際問題となった。1995年にマケドニアは国旗の形状を変更する事に同意した。

1850年代からヴェルギナ周辺の丘陵は考古学者の興味を集めていた。古代マケドニアの首都アイガイがこの近辺にあるとこが有力視されており、これらの丘には王墓がつくられたのではないかと予想されていた。発掘は1861年にフランスの考古学者Leon Heuzeyのもとで始まった。この発掘で古代マケドニアの宮殿跡の一部が見つかった。発掘作業はマラリアの感染を恐れて中断された。

1937年テッサロニキ大学の発掘隊が調査を再開した。さらに多くの遺物が発見されたが、1939年にイタリアとの戦争が始まると調査は中断された。第二次世界大戦とそれに続く内戦が終結すると発掘が再開され、1950年代、1960年代には宮殿跡の全貌が明らかとなった。アンドロニコスは遺跡をマケドニア王の墓であると主張した。

1977年にアンドロニコスは6週間の発掘作業を行い、盗掘にあっていない墳墓を発見した。さらにいくつかの墳墓が1980年に発見された。 アンドドロニコスはこれらの内の一つをフィリッポス2世の墓であると発表し議論が巻き起こった。
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これらの発掘物は一時的にテッサロニキ考古学博物館に展示されていたが、現在ではヴェルギナに博物館が建てられている。

2009年02月24日

ソフトウェアエージェント

ソフトウェアエージェント(Software Agent)とは、ユーザーや他のソフトウェアとの仲介(Agency)的関係[1]において動作するソフトウェアを説明する計算機科学上の抽象概念であり、論理的モデルである。そのような代行的行動は行動の適切さの判断や時期の判断の権限を暗示している。すなわち、エージェントの動作はタスクとして厳密に管理されないが、自分自身が勝手に起動することはない。

関連する派生概念として、知的エージェント(人工知能的要素である学習や推論を取り入れたもの)、自律エージェント(目的を達成するための方法を自律的に更新できるもの)、マルチエージェントシステム(単体では目的を達成できず、互いに通信する分散エージェント群)、モバイルエージェント(ネットワーク上で自身を実行するプロセッサを乗り換えていくことができるエージェント)などがある。
「エージェント」という用語はソフトウェアの抽象化/アイデア/概念を説明するものであり、その意味でオブジェクト指向プログラミングの各種用語(メソッド、クラス、オブジェクトなど)と同類である。エージェントの概念は、ユーザーの代理である程度自律的に行動できる複雑なソフトウェアを説明するための便利で強力な方法を提供する。しかし、メソッドや属性といった用語で定義されるオブジェクトとは異なり、エージェントはその振る舞いで定義される。

様々な人々がそれぞれにエージェントの定義を提案しているが、それらには以下のような概念が共通して含まれている。

永続性(persistence) - そのコードは要求されて実行されるのではなく、常に起動された状態で、何らかの行動を起こす時期を自身で判断する。
自律性(autonomy) - エージェントは、実行すべきタスクの選択、優先順位付け、目標に向けた行動、意思決定を人間の手助けなしで行う機能を持つ。
社会性(social ability) - エージェントは他のコンポーネントと何らかの通信や協調をする機能を持ち、1つのタスクを共同で処理する。
反応性(reactivity) - エージェントは周囲の環境を把握し、その変化に適切に反応する。
「エージェント」の概念は規範としてよりもシステムを解析するツールとして最も役立つ。上述したエージェントの概念は人間が複雑な仕事を考える場合の自然な方法を反映したものであり、そのためにエージェントはそのような複雑なタスクのモデルとして有効である。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

知的エージェント
知的エージェント(知的ソフトウェアエージェント)の設計は、人工知能研究の一分野である。

知的エージェントは以下のような能力を有する:

適応(adapt)能力
適応には、環境を把握することと反応を再設定することが含まれる。問題解決ルールやアルゴリズムの代替案を選択したり、新たな問題解決戦略を発見することで適応がなされる。適応には、プロセッサや記憶装置といったリソースを確保するなどの能力も含まれる。
学習能力
学習は試行錯誤によってなされ、前提として成功・失敗の判断とその分析能力を備えている必要がある。別の方法として、例示と一般化による学習もあり、実例を抽象化し一般化する能力を備えている必要がある。

自律エージェント
一部のソフトウェアエージェントは自律的であると言われる。自律エージェントは、自己充足的であり、観測された環境に基づいて内部目標を達成するための行動を独自の判断で決定することができる。ただし、このような言い方は物議をかもしている。なんとなれば、全ての重要な仕事を行うソフトウェアエージェントは、ユーザーに起動された後も監視され、その動作にユーザーが手を出し、必要になれば停止させられるものだからである。

分散エージェント
エージェントは自己充足的であるため、複数のエージェントを疎結合させて分散プロセッサ群の上でマルチスレッドのように動作するよう設計するのも簡単である。これを分散エージェントと呼び、分散コンピューティングの一種と考えることができる。エージェントのコードは分散処理にうまく適応させやすいので、スケーラビリティも良好である。

マルチエージェントシステム
複数のエージェントが相互作用を及ぼしながら動作するシステムをマルチエージェントシステムと呼ぶ。そのようなエージェントの性格上、1つのエージェントが目標達成に必要な全機能や全データを持たない(視点が制限されている; limited viewpoint)。したがって他のエージェントと協力する必要がある。また、全体を統括する機能は(ほとんど)ないので、これを一種の群知能システムと見ることもある。分散エージェントと同様、データは分散配置され、実行は非同期である。先駆けとなった概念として「分散人工知能」や「分散問題解決」がある。

モバイルエージェント
エージェントのコード自体がその実行状態(コンテキスト)と共に別のプロセッサに移動して、そこで実行を継続する。モバイルエージェントは「モバイルコード」とも呼ばれる。

ファジィエージェント
ファジィ論理を使用したエージェント。

エージェントではないもの
エージェントとは何か、あるいは何でないかを述べるのは、あまり有益ではない。しかし、関連する用語と対比させることでその意味が明確化される部分もある。

一般的コンピュータプログラムとの相違点
Fanklin & Graesser (1996) では、一般的プログラムとエージェントを区別する4つの点を指摘した。それは「環境への反応、自律性、ゴール指向、永続性」である。

オブジェクトとの相違点
エージェントの方がオブジェクトよりも自律的である。
エージェントは柔軟な動作が可能(反応的、自発的、社会的)。
エージェントは少なくとも1つのスレッドを持つ(通常もっと多い)。
(Wooldridge, 2002)

エキスパートシステムとの相違点
エキスパートシステムは自身の置かれた環境とは隔絶されている。
エキスパートシステムは、反応的・自発的振る舞いをするよう設計されていない。
エキスパートシステムは社会性を考慮しない。
(Wooldridge, 2002)

歴史
エージェントの起源はカール・ヒューイットのアクターモデル(Hewitt, 1977)にまで遡ることができる。「自己充足的で対話的かつ並行的に実行されるオブジェクトであり、内部状態を持っていて通信機能を備えている」

より学問的に言えば、ソフトウェアエージェントシステムはマルチエージェントシステム(MAS)から生まれた。MAS は分散人工知能や分散問題解決の研究から出てきたものである。したがって、ソフトウェアエージェントは(良くも悪くも)分散人工知能や人工知能の性格を継承している。

ジョン・スカリーが1987年に提案した Knowledge Navigator のビデオではエンドユーザーとエージェントの関係が描かれていた。まず最初に理想像があったため、この分野ではボトムアップ的手法ではなくトップダウン的手法を採用して何度も失敗を繰り返してきた。エージェントの種類は現在では非常に幅広く、World Wide Web やサーチエンジンなどに利用されている。


バイヤーエージェント(買い物ボット)
このタイプのボットはインターネットサーファーが商品やサービスを見つけるのを補助する。例えば、eBayで買い物をしようとしたとき、ページの下に同じ検索をした他のユーザーが購入した類似商品のリストが表示される。これはユーザーの嗜好の類似性を仮定して、同様の商品に興味を持つだろうと判断しているためである。この技術を協調フィルタリングと呼ぶ。

ユーザー(個人)エージェント
このタイプのエージェントはユーザーのために自動的にタスクを実行する。例えば、ユーザーの指定に従って電子メールをソートしたり、カスタマイズされたニュース収集をしたり(例えば、newshub)、ユーザー情報に基づいてウェブページ上のフォームに入力したりする(たとえば、Form Filler bot)。

監視(予測)エージェント
このタイプのエージェントはコンピュータシステムなどの機器を監視して報告する。例えば、在庫状況を監視するエージェント、競合他社の商品価格を監視して報告するエージェント、インサイダー取引や噂などによる株価操作を監視するエージェントなどがある。

データマイニング・エージェント
このタイプのエージェントは、様々な情報源からの多量の情報から傾向とパターンを探す。ユーザーは自身が探している情報を見つけるのにそれを役立てる。この系統のボットの例として、市場の状況を監視して変化をキャッチしユーザー(企業)に報告するものがある。ユーザー(企業)はそれにしたがって判断を下す。例えば、このエージェントが建設業界の低落傾向を検出したとすると、これを知った建設業者はその情報に基づいて従業員の解雇/雇用や設備の購入/リースといったその企業の業界での位置にふさわしい知的な経営判断を行うだろう。

その他の例
その他の知的エージェントの例として、スパムフィルター、ゲームボット、サーバ監視ツールがある。検索エンジンの使用するボットも知的エージェントの一種である。その他の例は BotSpot にある。

ユーザーエージェント - ウェブブラウザなどのこと
メール転送エージェント - 電子メールを処理するソフトウェア。ユーザーエージェントも含めてこれらが「エージェント」と呼ばれるのは、ユーザーが知らない通信プロトコルを理解してサーバと通信することからである。動作に関する(フィルタリングなどの)ルールもユーザー設定可能で、ある程度自律的に動作する。
SNMP エージェント
DAML - Defence(DARPA) Agent Markup Language、Semantic Web 関連。
Web Ontology Language (OWL)
UNIX系システムでの デーモン。

設計上の問題
エージェントベースのシステムの開発する際の興味深い問題として、以下のようなものが挙げられる。

タスクのスケジューリングと同期をどのように実現するか
エージェントがどうやってタスクの優先順位付けをするか
エージェント間の協調動作やリソース確保をどうするか
エージェントをどのように別の環境に生成するか、内部状態をどう保持するか
通信をどう行うか
エージェント群の階層構造はどうすべきか(例えば、タスク実行エージェント、スケジューリングエージェント、リソース確保エージェント……)
ソフトウェアエージェントが効率的に協調動作するには、データの意味論的要素を共有しなければならない。これはコンピュータシステムがメタデータを提示することで可能である。

「エージェント処理; agent processing」には相互に関連する以下の2つの定義がある。

内部状態処理と知識表現のためのオントロジー
協調動作のプロトコル - タスク間の通信を行うための標準
エージェントシステムは実世界を並行性や並列性でモデル化したものでもある。

Agent Machinery - 各種エンジン。知能程度は様々である。
Agent Content - Machinery が推論や学習に利用するデータ。
Agent Access - Machinery が Content を把握し推論の結果として行動することを可能にする方法
Agent Security - 分散コンピューティングに関連した懸念の中でも特にエージェントに関して指摘されている問題
エージェントはアクセス手段を用いてローカルまたはリモートのデータベースを調べ、Content となるものを探す。アクセス手段としては、ネットニュースをエージェントが受け取れるようにするとか、掲示板を用意するとか、ウェブを歩き回る機能を使用したりする。あらゆる情報源を検索できるわけではないので、このようにして検索される Content は部分的にフィルタリングされているだろう。エージェントはさらに詳細な検索を行ったり、機械的言語処理を行ってキーワードやサインを Content から探し出す。この要約された Content (またはイベント)がエージェントの推論機構(Machinery)に渡され、新たな Content に対して何をすべきかを判断する。この過程でイベント Content はユーザーが提供したルールベースか知識内容と結合する。その過程で新たな Content から良い一致を検出したら、エージェントは Machinery の別の機構を使ってさらに詳細な検索を行う。最終的に、エージェントは新たな Content に基づいて採るべき行動を決定する。例えば、ユーザーに対して重要なイベントが発生したことを通知する。この行動はセキュリティ機能によって検証された後、ユーザーの権限を与えられる。エージェントはユーザーアクセス手段を使ってメッセージをユーザーに提供する。ユーザーがそのイベントが重要であり、素早く対応すべきと判断したら、エージェントの学習機能(Machinery)がその重み付けを更新し、今後の同種のイベント発生に備えることもできるだろう。

2009年02月08日

言論統制

言論統制(げんろんとうせい)は、狭義には政府が心理戦の観点から出版・報道等の各種情報媒体に対して行う規制・監視・操作・防止などの活動を言う。広義には非戦時の検閲も含む。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

言論統制は主に対内的に流布する利敵情報、例えば国家政策への批判、治安・風紀を乱す主義思想、国家的に重大な機密、暴動・国内的混乱の扇動など、が出版・報道・流布されないように調査や検閲を行い、必要に応じてこれらの情報を操作・管理・防止することである。これらには反政府的・扇動的な主張を行う集会を禁止したり、集会内容を規制することも、言論統制の一環といえる。

実例
江戸時代の日本では出版には届け出が必要であり、これを犯したものは罰せられた。例えば1855年に仮名垣魯文の『安政見聞誌』を出した版元と共著者の一筆庵英寿は手鎖の刑となった(但し、魯文は無署名であったため筆禍を免れた。)。近代の日本では非戦時でも出版法、新聞紙法などにより言論統制は行われた。横須賀の軍港付近などの地理記述、写真は発禁の対象となった。共産主義・無政府主義の理論・戦略の宣伝、その運動の実行の扇動、その団体の支持、君主制の否定、植民地の独立運動の扇動、財界を撹乱する言論、堕胎方法の紹介などは禁じられた。

戦時体制下の日本では、出版法、新聞紙法、国家総動員法などをよりどころにした言論統制の実務が情報局を中心に行われた(安寧秩序紊乱に関わる発禁命令権者は内務大臣)。現在は日本国憲法で言論の自由の保証が明文化されているが、その日本国憲法下においても、プレスコードなどGHQによる言論統制、弾圧は強力に行われていた。アメリカなどの自由主義諸国でも戦時においては言論統制は当然のように行われる。大韓民国では国家保安法により共産主義の理論・戦略の宣伝、その運動の実行の扇動、その団体を支持する言論は禁じられている(現在、朝鮮戦争は休戦中であるが、大韓民国は休戦協定に参加していないため現在も「戦争継続中」である)。

現在でも中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、イスラム諸国、一部のアフリカ諸国などや軍事政権下では日常的に言論統制が行われており、国営放送など政府系の報道機関を通じて虚偽の情報を流すこと(情報操作)によって自国内の結束が維持されている。かつては3大マスコミ(TV、新聞、ラジオ)が情報統制、世論操作に使われていたが、近年ではインターネットも格好の道具として使われており、たとえば2006年9月現在中国語版ウィキペディアは中国国内ではアクセスできない(中国大陸におけるWikipediaへのアクセス封鎖)。

民主主義国家とされる国でも、国家による言論統制が行われる、ないしは試みられることがある。近年ではロシアやコロンビア、イタリアなどで、国家そのものが直接関与せずとも、与党の有力政治家が個人的に多くのメディア企業の経営権を掌握して言論への影響力を及ぼしている例がある。ドイツではヒトラーを礼讃したり、ナチスの意匠や出版物(たとえば、ヒトラーの著作『我が闘争』)を流布すると厳しく取り締まられる――これは「戦う民主主義」という名目で統制が正当化されている例である。韓国では戦前の日本の植民地支配を肯定するなどのチニルパ(親日派)的発言をすると国家侮辱罪で取り締まりの対象となることが度々ある。日本では言論の自由が保障されているが、菊タブーや鶴タブーなど言論の禁忌が少なからず残存(但しこれらは自主的な自己検閲に類するもの)しており、近年では人権擁護法案が言論統制に繋がる可能性があるとして議論を呼んでいる。

ロシアやフィリピンなどのように、言論の自由があっても政治的殺害に巻き込まれる可能性もある。

元来の用法からは、国家権力を有しない個人・団体が抗議活動を行い、その結果として自主規制の形で出版・報道されないことがあったとしても、このようなことを指して言論統制と表現するのは誤用である。しかし、特にその個人・団体の社会的影響力が大きい場合、抗議されたメディア側がこれを「言論統制」だと主張して反発することも多い。

ただし一方で、抗議する側のメディアが既成組織と交わることにより、メディア自体が悪質なプロパガンダ主体と化す危険性もある。

アメリカの場合
アメリカはアメリカ合衆国憲法修正条項第1条に検閲の禁止を掲げている。これは議会も大統領も遵守しなければならない。但し、国務省・国家安全保障局は公式に認めていないが、安全保障の観点から「エシュロン」を用いて、全世界で電気通信の内容を例外なく全て傍受しているといわれる。即ち、アメリカでは絶対に検閲はできないが、監視はできるのである。

また上からの検閲はないがコード(code)と呼ばれる自主規制がある。この自主規制は例えば出版・放送・映画業界への公権力介入を防ぐ意味もある。しかし、規制の裏付けとなっている宗教観や倫理観(例えば中絶反対といった生命観など)が世論へのプレッシャーとなっているのもまた指摘される点である。何よりも大手のマスメディアが独占資本であることは、常に行政から訴訟を起こされる危険を抱えている事<選挙とのタイミングを計りながら互いの出方を窺っている点>と同義である。

行政委員会や裁判所は国民の権利を守る存在であり大きな影響力をもつが、人権や安全保障の観点より一つ一つの手続きをなすにも煩雑で時間がかかり、これがまた国民からみると敷居の高い障壁に見えることもある。

また受け手も人種や社会階層ごとのメディア・リテラシーの違いが問題となる。特に低所得者層の黒人やヒスパニックはテレビから得る情報の影響が大きい。また人種相互の見えない壁が対立を生み情報の選択・判断を狭めている問題は最大の問題といっても過言ではない。アメリカはたしかに「自由の国」ではあるが自由の基盤は複雑である。しかし、20世紀においてアメリカ以上に言論により体制への批判を行なった国はない点もまた事実である。

おもな言論統制国家
アジア
大韓民国(国家保安法に基づき共産主義に限る)
朝鮮民主主義人民共和国
中華人民共和国(国家批判やその該当行為に限る。ただし香港およびマカオは除く)
シンガポール
インドネシア
ミャンマー
タイ王国(不敬罪該当行為に限る)
トルクメニスタン
イラン(反国教該当行為に限る)
シリア
サウジアラビア(不敬罪および反国教該当行為に限る)
アラブ首長国連邦(政党結成に限る)

ヨーロッパ
ベラルーシ
ドイツ(憲法に基づきナチス肯定に限る)

アフリカ
ジンバブエ
リビア
スーダン
エジプト(宗教政党の活動に限る)

南北アメリカ
アメリカ合衆国(米国愛国者法に基づく、見えない統制が行なわれているという意見が存在する。)
キューバ

言論の自由
手段・目的
検閲
ネット検閲
発禁
情報操作
プロパガンダ
政治的殺害
自主的な言論統制
自己検閲
報道協定
タブー
プライバシー

国・地域別
日本
日本における検閲
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表)
朝日新聞の中国報道問題
人権擁護法案
青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律
民間検閲支隊
自己検閲によるもの
菊タブー
記者クラブ
報道におけるタブー
中国
中国のネット検閲
金盾
人民日報
新華社通信
天安門事件
法輪功
氷点週刊
韓国
言論統廃合
親日反民族行為真相糾明委員会
親日派のための弁明
李栄薫
朴槿恵
韓昇助
趙英男
安益泰
チンイルパ

2009年01月23日

カササギ(鵲、Pica pica)

カササギ(鵲、Pica pica)は、スズメ目カラス科に分類される鳥類の一種。別名カチガラスもしくはコウライガラスとも呼ぶ。中国語では「喜鵲」と表記。

旧北区・新北区に分布する。 日本では佐賀県(佐賀平野一帯)や福岡県(筑後平野一帯)を中心に生息しており、北海道・長崎県・熊本県・大分県の一部地域でも少数が生息している。ハシブトガラスのように群れを作らず、主にツガイ、もしくは、巣立ち前の雛と少数単位で暮らし、また、ハシブトガラスよりも、一回り小さく、黒地に白い羽を持つ。

生息地
日本では生息範囲が非常に狭いことから、1923年(大正12年)3月7日、その生息地を定めて、カササギ生息地一帯の市町村は国の天然記念物に指定されていた。このカササギは生息が局地的であることから、朝鮮半島からの外来種であると推定されている。また、佐賀県では、県民からの一般公募により、昭和40年、県鳥とされた。

穀類や昆虫、木の実などを食べる雑食性である。クスノキなどの樹木に木の枝・わらなどを用いた球状の巣を作る。現在では都市化の影響で、電柱に巣を作る個体が増加しているが、これは時として停電を招くこともある。そのため、九州電力などでは、電柱上の変圧器付近に黄色い風杯型風車を取り付けるなどして、カササギなどの鳥に巣を作られないよう対策を講じている。

カササギに関するエピソード
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前国の佐賀藩主鍋島直茂、筑後国(現福岡県)の柳川藩主立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り、繁殖したものだとされる。[1]

Sibley分類体系上の位置
シブリー・アールキスト鳥類分類
スズメ目 Passeriformes
スズメ亜目 Passeri
カラス小目 Corvida
カラス上科 Corvoidea
カラス科 Corvidae
カラス亜科 Corvinae
カラス族 Corvini

文化(日本)
ウィキクォートに鵲に関する引用句集があります。カササギの存在は「七夕伝説」の伝来とともに、古代から日本でも知られている。奈良時代の歌人大伴家持の歌とされる、次の歌が『新古今和歌集』(および『小倉百人一首』)に収められている。

鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける

知能
カササギは鳥類のなかでも大きな脳を持っているという特徴があり、ほ乳類以外の動物では初めて鏡を認識したことが確認された生物であると発表された[2]。

文化(朝鮮半島)
朝鮮半島では、七夕伝説における織姫と彦星の間をつなぐ掛け橋の役を担う鳥として、親しまれている。朝鮮語ではカササギを「??(Kkachi、カチ)」と呼ぶ。大韓民国では首都のソウル特別市をはじめとする多くの都市が市の鳥に指定している。

コウライキジ(学名:Phasianus colchicus)は、キジ科の鳥類の一種。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

コウライキジ(Phasianus colchicus)は30の亜種に分けられている。ユーラシア大陸に広く分布するコウライキジに対して、日本列島には日本固有種のキジ(Phasianus versicolor)が生息する。種小名はカフカース地方の古代王国コルキスに由来する。 キジは雄の翼を除く体色が全体的に緑色であるが、コウライキジは冠羽と体色が翼と同じく褐色であり、多くの亜種には首に白い輪状の模様があるのが特徴である(基準種P. c. colchicusには首輪状の模様はない)。このためコウライキジは俗に「クビワキジ」、キジは「ニホンキジ」と呼ばれ区別されることがある。雌や雛はキジとの識別は困難である。

コウライキジとキジは容易に交雑し、その子孫も生殖能力を持つ。実際に両者の交雑個体が日本で多数確認されている。よって、キジをコウライキジの亜種と見なす分類学説もある。その場合、キジの学名はP. colchicus versicolorとなる。

分布
Phasianus colchicusの自然分布はカスピ海地方から朝鮮半島にかけてであると考えられるが、古くから狩猟鳥として親しまれたために世界各地に人為的に移入されている。例えば基準種P. c. colchicus(英名:common pheasant)は古代ローマ人によってイタリア半島に移入され、そこでの環境に適応した系統がヨーロッパ中に広まっていった。[2]

生態
概ねキジに近いが、より拓けた環境(草原や耕作地など)を好んで住環境とする。放鳥に拠る定着が試みられた北海道では嘗て庭先にニワトリの餌のおこぼれを食べに来るコウライキジの姿が見られた。

移入種

日本への移入
コウライキジの名前の由来は高麗(朝鮮)のキジの意であり、日本には朝鮮半島および中国吉林省中央部および南東部と遼寧省南東部原産のP. colchicus karpowi Buturlin亜種(英名:Korean pheasant)が1924年に名古屋市近郊の津島市に移入され、さらに坂根から1930年に北海道の長万部町と日高郡に移入された。八丈島と三宅島には1965年から1966年にかけて移入されている。[3][4]対馬と瓜島には、すでに中世に朝鮮半島から移入されていたとされる。[5]

北米への移入
北米大陸には1730年からPhasianus colchicusの移入が試みられ、中国山東省から河南省、江蘇省南部から湖北省、湖南省、江西省、福建省から広東省南東部にかけての地域が原産[6]の亜種 P. colchicus torquatus Gmelin 1789(英名:Ring-necked Pheasant)が狩猟用に移入されて帰化した。[7]現在はプレーリー地方に多く分布し、サウスダコタ州の州鳥である。

2009年01月16日

阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)

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阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。越国守。阿倍氏一族の内、引田臣と呼ばれる集団を率いていた。

『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげた。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指すが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明である。オホーツク文化人とも取れ、沿海州にまで渡ったとも推測される。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して帰った。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山のこととも津軽ともいう。

662年、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島に向かったが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗した。この敗北により百済再興の夢は潰えた。しかし敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命された。

ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれており、事実なら比羅夫と仲麻呂は祖父と孫(あるいは伯父と甥)の関係ということになる。

安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ、生年不詳- ?663年(天智2年))は、7世紀中頃の外交官・武将。氏は安曇氏。姓は山背連。名は比良夫とも書く。

舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇が亡くなったのに際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。661年高句麗が唐の攻撃を受けると百済の救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋を王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。

663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われ安曇比羅夫の命日であるとされる。